denimm日誌

雑記帳

鍋の適量数を考える

先日、友人から
“鍋って家に何個あればいいの?” と聞かれた。

料理をよくする人か
キッチンスペース
家族数、生活スタイルなどで違ってくるし

ざっくり言えば、
人それぞれとしか言えないなあと思ったのだけど
彼女は、私がお片付けを仕事にしていることを知っている。
だからこそ、私に聞いてくれている。

そう思うと
それを今、答えにするには、不誠実に思えた。

たとえ、最終的にそう答えるにしても
何かしらの指標を言葉で渡したいと思い
即答できなかった。

この質問をされたのは初めてではない。
以前、キッチンのお片付けを
ご依頼されたお客さまも口にされたことがある。

“私の適量とは?” 
お片付けに取り組もうとすれば
これは必ず出る問いなのだと思う。


一例である我が家の鍋の数を紹介する。

20 18 16㎝ のステンレス鍋(クリステル)

22㎝のストウブ鍋

圧力鍋

アルミミルクパン

以上6個の鍋で我が家の食は賄われている。

モノを過剰に持たないようにしましょうと
言っている割には
6個という数は多い印象ではないだろうか。

ただ、我が家は
やかん、炊飯器、蒸し器、揚げものの役割を
この鍋たちがすべて担ってくれている。
また、クリステル鍋は入れ子式で
鍋ひとつ分しかスペースをとらない。

モノを持つ基準に汎用性の高さに価値をおくこと

こう考えることが
狭いマンションのキッチンにおいて
調理スペースの確保を可能にしている。

先の友人は
カレーや肉じゃがなど
炒めるという作業工程が入った後に
煮込むというお料理の場合

一旦、フライパンで炒めてから
また別の鍋にうつして煮込むというやり方だった。

この作業や洗い物を増やすのが嫌で
鍋ひとつで出来上がる、
ストウブ鍋を手に入れた。

だが、思ったより鍋が小さく
炒めが窮屈に感じたようだ。

もう一回り大きな鍋を買うか思案中との事だった。


こういった例は
少し柔軟に考えてみる。

例えば、鍋の変わりに
質のいいステンレスフライパンであれば
美味しい肉じゃがは出来上がる。

ストウブ鍋でも
玉ねぎを先に炒めて、カサを下げてから
他の食材を入れれば
鍋から飛び散ったりすることなく
調理ができると思われる。

友人の取る選択は
もう少し大きな鍋を増やすの一択ではなく

フライパンの買い替えや
調理法を変えることで問題解決に至るかもしれない。

要は
今、何に不満やストレスを感じているか
では、どういう暮らし(今回はキッチン)を
私は望んでいるのかな?

一度、そこに自分のこころの声を聞いてあげる。
そこにこそ、見えてくる答えがあると思う。

暮らしに必要な道具の適量は
全体の調和で考えるべきである。


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過信

やってしまった。

気を付けていたつもりだったけれど。

 

慌ただしい日常の中に

私は上手に

ちいさな違和感を紛れさせたつもりでいた。

 

年令を重ねながら

自分を誤魔化すことを覚える。

 


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何のことはない。

その代償は

ちゃんと利子をつけて戻ってくるっていうのにね。

 

小さくて大きな私の過信。

 

 

 

関係性を白紙にする

お片付けには段階があって

最初は明らかにいらないモノ

もう使えないモノを手放すのだけど

 

進むにつれて

今現役で使っていても

よくよく考えたら

私のオトモは本当にコノコでいいの?

って思いはじめることがある。

 

一旦、0(ゼロ)で考えたとしても

私はお金を払ってこれを持ちたいかな

と、考えてみる。

 

一旦、 今までの長い関係性を考慮せず

モノに贔屓をしない。

 

あくまでも

今の私に照準をあわせる。

 

その視点で

お部屋にある一点一点のモノと向き合うと

手放してもいいかなと思えるモノが出てくる。

 

逆に

どうやったってキミと別れられるはずないじゃないかーー

と、抱きしめたくなるほどのモノもある。

やっぱりキミなんだーー!と。

 

そして、それはきっととても数少ない。

 

 
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私たちの暮らしに本当に必要な大事なモノって

驚くほど少ない。

 

でも、それらだけで織り成す暮らしは

たくさんのモノに囲まれた

一見豊かに見える暮らしよりも

お金では買えない時間や余裕という名の

豊かさを与えてくれる。

 

これを一回体感してしまうと

リバウンドって状態には

もう戻りようがないなと思う。

絵本は子どもだけのものじゃない

キングコング西野氏が

ご自身が描かれた絵本を

ネットで全ページ無料で公開したことが話題になっていますね。

 

ところで

絵本は子ども専用の読み物と思われますか?

 

もし、今 

“専用じゃないんだろうけど、

そういえば何年も絵本なんて読んでないなあ”

 

ふとそう思われたら、ぜひ絵本を手にとってみてほしいな、と思います。

大人の鑑賞に十分耐えうる面白い絵本がたくさんあります。

 

今日はその中から一冊ご紹介します。

 

キツネ

マーガレットワイルド/文
ロンブルックス/絵

BL出版

 

図書館でたまたま子どもが手にしたこの絵本に

母親の私が魅いられてしまい、

結局本屋さんに注文しました。

 

友情、裏切り、嫉妬、孤独……

人間のサガともいえる感情がうずまいていて、

解釈は何通りもあるように思えます。

また、同じ読み手が読んでも

読み手の状況によって、

その解釈も変わる印象すらあります。

 

登場するのは三匹だけ。

キツネ。カササギ。イヌ。

さあ、読んだとき、

あなたが最もこころ魅かれたのはダレでしょう。


絵本の奥深さについて無関心ではいられない絵本です。

おすすめします。

 

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公園は正義!! の旗を下ろす時

一月現在、

我が家の七歳の子どもに伝えている門限は5時15分である。

 

本当は5時としたかったのだが

公園を愛してやまない彼の必死のネゴシエーションに母は15分屈した。

 

彼の公園愛、外遊び愛は、インドア派の母の概念では理解できない。

 

先の夏休み、泊りがけでさんざん遊び倒して家に戻ってきた日のことだ。

私たち家族は、ハードスケジュールが祟ってくたくただった。

 

夕日が少し残る黄昏どき、駐車場を降りるや否や

2日間を一番動き回った次男は

“ちょっとだけ、遊んでくる” と駆けて行った。

 

たった、30分でもいい。

射す光が残っていれば、

彼は誘われるように公園へと駆けて行く。

次男はそういう子である。


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その彼が、昨日5時10分に家に帰ってきた。

どういうことだ?

 

いつもは、門限を遅れがちである。

迎えにいけば、親が公園にいることをいいことに

もう少し、もう少しだけ・・と更に遊びたがる。

 

その彼が門限時間より早く帰ってきた。

これは入学以来初めてのこと。

たった5分といえど、これはただ事ではない。

 

「○○ちゃん(次男)、どうしたん、何かあったの?」

 

誰かに苛められたのか、まさか不審者が……

本気で心配して、私は聞いた。

 

「ボクが早く帰ってきたのは、な~んででしょ?」

 

こちらが拍子抜けするトーンで

彼からは、ミニクイズが出題された。

 

どうやら、不審者がらみではなさそうで、安堵した私は

 

「ん~、○○ちゃんが、

 またまたお利巧さんになったからじゃないかなあ」

 

と、返すと

 

「ブッブ~。ざんねんでした~、

 せいかいは、おそとがさむいからでした~」

 

 

 

前略

 

日本の、ここ最近の寒波は、全くもって尋常ではないようです。

 

このブログを読んで下さっている希少な優しいあなたが

お風邪を召されませんように

どうぞ、ご自愛くださいませ。

 

 

かしこ

 

 

 

一ヵ所を片付けたら、次も片付けたくなる

亡くなったお母様のモノを片付けたTさま。

その時の記事はこちら。

 

denimm1222.hateblo.jp

 


丸々スペースが出来た納戸。


代わりに置きたいものはあるのですか?と聞いたところ
ここの部屋に置いてあるものをこの納戸に移したいと言われ
通されたお部屋がこちら。

 

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床一面、モノで覆われた状態でした。 

 

元々、備え付けられた収納棚には、

ご先祖さまの代のモノ、

本家として置いておくようにと言われたモノが

場所を占領していました。

 

お部屋とお部屋は繋がっています。
お片付けは、家一軒という単位で考えるべきなんだと
実感をともなって思いました。

 

まずは、全出し。

スーパーの袋に入ったままの中身も出して
この部屋に何がどれだけあるか
モノの全体量を知っていただきました。

 

全体量ってお片付け前は把握が難しい。

何がどこにあるかが分からないからです。
だからこそ、また買ってきてしまう。
あるかどうか分からない不安な気持ちというのは
買って解決するほうが手っ取り早いのです。

 

でも、それがまた溜め込みの原因になってしまい、
お片付けをさらに高いハードルにしてしまう悪循環。

 

聡明なTさまは、お片付けをしながら、ご自身でそれに気づかれ

 

「私、こんなに持っていたんですね。」

 

と、お片付けをしながら

ご自身の状況を自ら振り返る余裕も出てきたご様子。

 

お母さまの遺品を整理なさったTさまは

モノの要不要の判断がドンドン早くなりました。

 

数時間後、先程の部屋はこのように。

 

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最初、Tさまからは

この部屋は、使う予定もないし、正直あまり好きな部屋じゃないんです。

と、伺っていました。

 

建築年数が長い戸建てにお住まいの方に多いのが

今の暮らしに必要な部屋数より、

多くの部屋数やスペースをお持ちの方です。

 

スペースがあるということは、メリットには違いありません。

 

と同時に、不要なモノを置いておける、

判断を先送りできるトラップも

そこには同居しているのです。

 

T さまは、何世代もの先送りを

ひとりっこのお子様に渡す前に

ご自分の代で片をつけることを

選択なさいました。

私は同じ母親として、そこに感動を覚えました。

 

Tさまからは何度もお礼を言って頂きました。

ですが、多くの学びを頂けたのは、私の方でした。

今回、暮らしのお手伝いが出来たこと、

私自身が大変嬉しく思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

反抗期ど真ん中の彼の瞳に映る母は

先日、長男とふたりで、自転車で出かける用事があった。

ふたり、と今書いたが、反抗期ど真ん中の長男は

朝から母との自転車デート(母認識)を誰かに見られまいと

私より、かなり後ろからついてきている。

車や人影のない早朝の狭い路地裏を、

わたしは時々後ろを振り返りながら、ペダルを踏む。


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予定していた時間より、少し家をでるのが遅くなった。

ところが、行く信号、行く信号、全部ひっかかる。

その度に、待つ。

風が少し出てきて、自転車の進みが遅くなってきた。

喧騒のない裏路地の交差点はまたもや赤信号だ。

 

左右を、目視する。

私は赤信号を自転車で渡り、先を急ぐ。

 

行った先の用事を済ませ、長男と自宅に戻る。

お昼ご飯を作っていると、長男がキッチンに入ってきて、牛乳パックを手に、

 

「お母さんでも、赤信号で行くんじゃなあ」

 

と、私に言ったのか、ひとりごとのようにも聞こえるトーンで呟いた。

その時、なんと私は言葉を返したのか忘れた。

ただ、長男が、母親である私をそう捉えていたのだなあと思って、妙に印象に残っている。

 

私は彼に対して、口うるさい母親であろうことは自覚がある。

また、私なりに彼に愛情を注いできた自負もある。

 

渡す側の意図と、受け取る側の印象がいつも一緒とは限らない。

親と子の関係性では特にそれが顕著だろう。

 

生真面目だが

いい加減な所もいっぱいで、親しい人には甘えっぱなし。

 

そんな私を、子どもにも晒してきたつもりだった。

 

けれど

人影も車もない早朝の路地裏の赤信号を

母が渡ったことが意外だったと漏らす息子。

 

規範意識が高いと思われた母に彼は失望したのか

それとも

誰しもいい加減な所があるんだと、

彼は人というものを

少し俯瞰で捉えることができるようになった現れだったのか

 

息子の一言を思いながら、

少し丈の短くなった洗いたての彼のジーンズを

夕暮れの中、私はたたむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お片付けは最大のご供養

「亡くなったお母さんのモノを片付けたい」

Tさま(仮名)からのご依頼は
数年前に亡くなったお母様の遺品が入った納戸を
一緒に片づけてほしいというご依頼でした。



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以前より一人暮らしをされていたお母様が
生前に絵画や書を楽しまれていたそうで
その作品たちが納戸を占領した状態。

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この家に住むT さまご夫婦とお子さん、
生きている人のために
このスペースを使いたいと仰り

どんな場所にしたいかという
希望もしっかり持っておいででした。

本来は思い出の品からお片付けに手をつけると
要不要の判断に時間がかかるので
初動スピードが上がらず
精神的な消耗のわりに
作業の進み具合がいまひとつになる事が多い。

 “わたし、やっぱりお片付けは苦手だわ”

こういった思いを抱かせるリスクがあるのですが、
Tさまにはそれは当てはまりませんでした。

お母さまの生前の楽しい話を伺いながら、作業は進み
納戸の中は、一旦空っぽになりました。


数を絞って残すものを決められたTさま。
残すと決めたお母様の作品たちを置く場所は
もう納戸ではありません。

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この家の玄関、一番目立つ明るい場所に
Tさまはお母様の作品を飾ることになさいました。

季節ごとに飾る作品は変えていき
娘さんご夫婦の暮らしの中に居場所を見つけました。

Tさまは、納戸にあった多くのお母様の作品を手放しました。
でも、お片付け前よりもお母様を近くに感じると仰ったことが印象的でした。



所有している。家の何処かにはある。
これでは、意味はないように思います。
思い出を胸に、今を生きる人たちが心地よく暮らすことが
一番大事なことではないでしょうか。

前のめり過ぎたファンだと思われたけど、それもいい

「の~なん!?」

これを聞いてピン!と来た人。
こんにちは。わたしたち、きっとうまくいくと思う。
お友達になってください (ペコリ)


えー、倉敷にさらば青春の光というお笑いコンビが来たので行ってきた。

子どもたちがM-1という番組を見て
気に行ったフレーズのひとつが
彼らの “の~なん”だったから。

11時と14時の2回のステージだったが
午前中の回に見て、お昼を近くで済ませ
ゆっくりしようという算段だった。

9時半に現地に着いた。

私は人込みが苦手。
どこかに行くなら、なるべく人の圧から
神経をすり減らさない状況を選びたいと思っている。
ふだん頼みの綱の主人は今日は仕事だ。
マナーや感じの悪い人が目に入らない最前列で見たかった。

そう思って早めに行ったのだが
会場は一時間前から列に並べるようになっていた。
つまり10時。
後30分ある。

待つだけで計1時間半かあ。

結果、他の観覧者が誰もいない現場に一時間半も前から
私は立ち尽くしていたのだった。

こうなると、会場準備をする人に
私は相当のファンに映っただろう。

時々、目があうスタッフの人たちの目が一様に優しい。

手持ち無沙汰な私は質問ボックスなる箱に
質問や子供も好きなんですといった、
応援メッセージを書き込んだり、
文庫本を読んだりして時間が来るのを待った。


いよいよスタート時間。

ゲジャジャジャジャーン、オーオー、オーオーの
M-1の曲にのせて、おふたりは登場した。

生“の~なん“ 頂きました。

漫才とコント。
両方とも面白い。
子どもは途中あきるかもと思っていたが
終始おとなしく笑って見ていたので安心した。


では、今度は質問に答えま~す!
司会の女性が言った。

おおー、さっき書いた質問の事だな。
わたしのも読んでくれるといいなあ。

「では、お二人に選んでいただきましょう
 選ばれた人は色紙がもらえま~す!」

あー、そんなのもあるかぁ、いいねえ。

そう思っていたら、

「はい、森田さん(つっこみ)が選んでくれましたよー
 えーと、ようこさん、檀上のこちらへどうぞ~!!」

ん、ようこ?わたし?

いや、ようこって名前は他にもいっぱいいるはず。
っていうか、どうぞって何?

子どもは私を見ている。

「ようこさん、いませんか!!!!?」

恐る恐る私は手をあげる。

「あー、ようこさん、いたいた!
 どうぞ、上がってきてください!!」

え、上がるの?思てたんと違う。。。
一瞬そう思ったが

「あー、上がるのいやです?
 ちょっと嫌そうですね(笑)」

あわわ、森田さんご本人に気を使わせている。
それを打ち消すように、わたしは急いで檀上に上がった。
嫌ではないよ、断じて違うよ。

完全に私は間違えた。

ようこさんと呼ばれたら、
私が仮に、しょうこさんやゆうこさんでも
大喜びで檀上に駆けて行かなきゃ
失礼ではないか。
何をこのタイミングで
いいオカンが引っ込み思案とか取り出したんだ。


わたしが檀上に上がると、
先ほど記入した質問や
応援メッセージが読み上げられた。

丁寧に答えてくださり
一緒に来た子どもたちのことにも触れてもらい、
色紙を受け取った私は席へと戻った。

次の人の名前が呼ばれても、まだドキドキしていた。

檀上では、次の当選者が色紙に書く名前を聞かれている。
色紙を受け取るその人。

と、そこで、先ほどはなかった光景が展開されていた。

当選者が差し出した手を、今日の主役の二人が握り返す。
そう、握手~!

なんですか、握手って。おさわり有りなの?
えー、私もしたかった。
モノより思い出派ですよ。

私の中の優先順位。
サイン<記念写真<握手

でも、サインもらえただけでもいいかな。
ネタも面白かったんだしね。
うん、楽しかった。



フードコートで食事を終えて帰ろうと思ったら、
外を見ていた次男が

「もうみんな並んでるよ、一番前で見れないじゃろ」

と、何やってんだ、お母さんという目で言ってきた。

「え、二回目?
 見るの?ホント?
 それならもう後ろでいいよ」

と、言ったのだが、
弱気になるなという勢いで私の手を引っ張る次男。


この日、私たち母子は
2ステージを最前列で観覧した前のめりすぎるファンだった。


この世界を穏やかに生きたい

何年か前、“微妙”という言葉がやたらとよく使われた時があった。

この言葉はその後、一時の流行語ではなく、
いまや、日常的に使われるようになった。

二人で日程を調整する時など

「この日、どう?」

「う~ん、ちょっとその日は微妙かな~」

と、いったように、はっきりダメとは言わないけど、
でも、その日でも大丈夫なニュアンスも若干残すという、
会話のラリーを重ねても
物事が前に進んでいない感触を持たせる、かのワード。

言ってみれば、言葉に窮したとき、
とりあえず返せる便利な言葉なのである。

独身時代にこれを、多用する人に出会ったことがある。

当時、ある店の店長をしていた私はスタッフの人員確保も大切な仕事だった。

予約が多く入った明日
ローテーション入りしていたスタッフが
体調不良で休むことになり
私はあるスタッフに明日の出勤が可能か確認した。

「明日は微妙ですね~」

邪気のないニコニコした表情で、彼女は答えた。

明日の予定を聞かれ、
yesでも noでもない、第三の返事“微妙 ”

急いでいた私と、放たれた返事のユルさのギャップにクラクラした経験がある。


これは、ただの一例だが
意見を求められたり
抜き差しならぬ状況の時
曖昧さは罪である。



あるカフェにて。

差し向かいに座る、若い男女。
若い女が、口元からストローを離し、うっとりした口調で上目遣いに聞く。

「ねー、私のこと、好き?」

「んー、微妙。」

「‥‥‥‥」

デートは終わりである。



ソファーに座るこの家のあるじは、身動きひとつしなかった。
長年堪え忍んできた老いた妻は意を決したように、言葉を発した。

「もう無理ね、私たち。別れましょ。」

「んー、微妙。」

「‥‥‥‥」

妻は話し合いの場を家裁に移すだろう。



上記二件は、私の思いつき妄想劇場である。
イメージが貧困なのはご容赦頂いて
ただ、言いたいことは、
“微妙“ が持つふわふわしたニュアンスからは想像しがたいが
場面次第で、恐ろしく破壊力を持っているということである。



では、曖昧さに寛容を要求され続けるとどうなるか


今度は、

白か黒か
0か100か
良いか悪いか
好きか嫌いか
敵か味方か

今や、気づけば世の中のベクトルは、
常に二択を問われ過ぎていないだろうか。

この二択のうちの一つを選ぶ二分割思考は楽である。

何故なら、一度、自分の中で決めてしまえば
それ以上は考えなくて済むからだ。




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けれど、私たちの世界は、白か黒かだけで構成されていない。

グレーの中で考え、葛藤を保持したまま
模索を続けなければならない時が必ずある。

その道のりは決して平坦ではないけれど
私たちに深い洞察をもたらし
謙虚な自分へと引き上げてくれるものだと思う。



貫くべきこだわりを大事に手放さないこと。
グレーを受け入れる柔軟性を持つこと。
このふたつを同時に持ち合わせること。


そのどちらか一方に傾き過ぎないバランス感覚は
その場しのぎの不安定な日和見主義に与していては
決して掴む事のできない感覚だ。


ストレスの少ない健全な心で今日も暮らせますようにと願う。