denimm日誌

雑記帳

なんとなく、気分が落ちている時に開く本

何かが決定的なわけじゃない

立ち直れないほどの悲劇的状況でもない

 

でも、このうつうつした晴れない気持ちが

ひっかかったまま

いつまでも付き纏うあの感じ。

誰しも思い当たる感覚ではないでしょうか。

 

 

何年も前に、何気なく手にとった本「すーちゃん」

我が家が断捨離祭りだった時に

何度も処分対象に上がりましたが

今でも、私の手元にある本です。

 

34歳独身の真面目な「すーちゃん」は

最近失恋した。

勤めるカフェでの働きが認められ

店長にならないかと言われるのだ。

嬉しい気持ちと同時に起こる

自分の未来への不安。

その時にすーちゃんはこう思う。

 

『自分の気持ちが見えてないときに

 

 迷っていることを人に相談はしない

 

 自分の答えが薄まってしまう

 

 自分で迷って考える

 

 そうやってきたから

 

 ずっとそうしてきたことを

 

 正しいと思ってるあたしがいる』

 

 

正しくて合理的な結論は

時にロボットのような

無機質な手触りしか残さない。

 

今はそれより

落ちた気持ちの正体がはっきり見えなくても

輪郭ぐらいはわたしが捉えたい。

迷って考えたい。

 

目的地までの道すがら

悩んだり、落ち込んだりする

わたしは正しいのだと

言ってくれているような気持ちになるのです。

 

 

主人公や登場する女性たちの心の機微が

ありふれた日常の中に溶けています。

そこにあるのは共感。

 

『分かるって、味方って気がする』

 

すーちゃんが呟くシーンがあります。

 

圧倒的な正論よりも

この気持ちはひとりじゃないんだと思えた瞬間が

前向きな気持ちにさせてくれることがあります。



「すーちゃん」のお話でした。


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すーちゃん 益田ミリ

冬幻舎文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学校からの電話

朝10時ごろ、出先にいた私の携帯が鳴った。

息子の通う中学からだ。

 

携帯に学校の表示が出るとき

いい知らせだった試しがない。

男子の母あるある のひとつだ。

 

我が子が何かをやらかしたか

我が子の身に時間を争う事態が起きたかの

どちらかである。

 

ドキドキして電話に出る。

 

「息子さんが気分が悪いというので

 熱を測ってみたら37.3℃です。

 今、保健室で休んでいますので

 お母様、今からお迎えお願いできますか?」

 

どうやら息子が不始末をおかしたわけでも

大怪我を負ったわけでもなさそうだ。

それにしても

 37.3℃・・・

腑に落ち切らないこの数字を

頭の中に漂わせながら、答える。

 

「すいません、今出先でして

 すぐにはそちらに向かえません。

 昼過ぎには伺えます。」

 

しばしの間の後、電話口の先生は

「お母さん、今

 学校はインフルエンザが流行っています。

 なんとかお願いできませんか?」

 

と、尚も急を要した口調の返事が返ってくる。

 

今すぐは無理だと再度伝えると

 

「分かりました。

 もし、お子さん本人が歩けると言われたら

 帰しても大丈夫ですか?」

 

さして距離のない我が家。

お願いしますと返事をして電話を切った。

 

私が慌てて用事を済ませ

家に戻ったその直後に息子は帰ってきた。

 

息子は、部屋で熱を測るとすでに36℃台だった。

体はだるい、少し関節が痛いというが 

思いのほか元気で

布団に横になりなさい、という私に

お腹がすいたと訴える。

 

一人前のうどんでは足りず

更にチーズもちの追加注文までしてくる。

 

母親は子どもが元気なことをなにより望む。

私も、わが子の健康には何より関心がある。

 

しかし、この目の前にいる我が子の状態と

大人たちの対応の温度差は何なのだ。

 

我が子は六年間の小学校生活を

ほぼ皆勤賞で終わらせている。

仮病という二文字は考えずらかった。

 

けれど、母親の私が理解できないことも

増えてきた微妙なお年頃だ。

先生も親である私も

思春期特有の気まぐれで刹那な倦怠感に

付き合わされているのではないか・・・

 

そもそも、37.3℃って平熱内じゃないのか

出先の親が慌てて迎えに行かなきゃダメなの?

37.5℃以上が園の登園不可の数字じゃなかったっけ?

 

先ほどの電話の先生との会話で

口にできなかった本音が

時間差の分だけ

輪をかけて脳内を駆け巡る。

 

今更それを

自宅に帰った息子に言っても仕方がない。

心の声をグッと吞み込んで

 

 「先生がインフルエンザが流行ってるって

 言われていたから

 もう部屋から出ないこと。

 用事があるならこれを使いなさい」

 

そう言って、携帯を渡し

一応、子ども部屋に隔離することにした。

 

夕方の自宅にかかってきた電話口の先生からは

明日、36℃台なら、登校させてください。

できれば、今日中に病院で

インフル検査を受けてください

 と、言われたのだった。

 

 

私はその時

看護士をしている友人の言葉を思い出した。

 

インフルエンザにかかってなくても

受診するのは体調の万全ではない人、

抵抗力が落ちている人が受診するから

病院内でインフルエンザ羅漢者のウィルスを

もらいやすい‥‥

 

身体のだるさ、37.3℃、食欲旺盛、歩いて帰れる体力・・・

 

今、彼はインフルエンザに

羅漢している可能性は極めてグレーだ。

でも、体調が万全ではないことは確実。

 

考えた末、私は夕方は病院に行かず

一晩様子を見ることにした。

 

渡した携帯は夜中に鳴ることはなかった。

水分もしっかり摂れたようだ。

 

次の日の朝。

体温計は36.5℃。

出した朝食を完食した息子に

私は心から安心した。

 

「さあ、早く〇〇くん、制服着て。学校に遅れるよ♪」

 

意識せずとも

語尾がハートマークや音符を付けてしまう。

 

すると、息子は

 

「こんなしんどいのに

 学校やこー、行けるわけねかろう!!!」

 

えええーーーー!!!!!

うそでしょ。

 

 

「あんた、36℃よ!

 学校に行かんでいいわけないじゃろ!!!」

 

そこからは、昨日からの気持ちも乗っかった、

親子バトルが展開された。

 

平行線の主張は

三者の権威で治める事にした。

 

病院に行って、お医者さまが

 

あなたは大丈夫です、学校を休むほどはどこも悪くありません。

 

そう言われたなら、学校に行きなさい、

と言う母に、息子はしぶしぶながら車に乗った。

 

病院ではっきり “キミは元気” と

お墨付きをもらえれば納得するだろう。

もう不毛なやり取りはごめんだ。

君の母はバトルは苦手分野なのだよ。

付き合いたまえ。

 

早めに来てよかった。

今日一の患者のようで、私たちはすぐに呼ばれた。

 


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初めてのインフルエンザ検査は

少し痛かったようだが

泣いて訴えるほどの幼さは

彼はもう残していない。

 

隔離された部屋に通され

痛い?大丈夫?と聞く母に

テイッシュで鼻を押さえながら

「まあ、ちょっとだけな」

と答える息子が、

少し可愛いなあと母は思う。

 

ほどなく私だけが、先生の元に呼ばれた。

 

「A型です。登校は来週火曜日からですね」

 

 

·············

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

お医者さまにとって

日常のありふれた台詞であろう言葉を

抑揚のない口調で私は告げられた。

 

 

なんとも、今年のインフルエンザは低体温。

ずーーーーっと。

息子は家では1度も37℃台にさえなってない。

 

食欲も奪いません。

昨日なんて、息子は天ぷら食べたいって。

ご飯もお代わり折り込み済みの

どんぶり鉢で出したけど

ドアの前に返された鉢は空っぽ。

息子はことのほか元気で、

大いばりで部屋で漫画読んでます。

 

インフルエンザってなんだったっけなあ?

 

 

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鍋の適量数を考える

先日、友人から
“鍋って家に何個あればいいの?” と聞かれた。

料理をよくする人か
キッチンスペース
家族数、生活スタイルなどで違ってくるし

ざっくり言えば、
人それぞれとしか言えないなあと思ったのだけど
彼女は、私がお片付けを仕事にしていることを知っている。
だからこそ、私に聞いてくれている。

そう思うと
それを今、答えにするには、不誠実に思えた。

たとえ、最終的にそう答えるにしても
何かしらの指標を言葉で渡したいと思い
即答できなかった。

この質問をされたのは初めてではない。
以前、キッチンのお片付けを
ご依頼されたお客さまも口にされたことがある。

“私の適量とは?” 
お片付けに取り組もうとすれば
これは必ず出る問いなのだと思う。


一例である我が家の鍋の数を紹介する。

20 18 16㎝ のステンレス鍋(クリステル)

22㎝のストウブ鍋

圧力鍋

アルミミルクパン

以上6個の鍋で我が家の食は賄われている。

モノを過剰に持たないようにしましょうと
言っている割には
6個という数は多い印象ではないだろうか。

ただ、我が家は
やかん、炊飯器、蒸し器、揚げものの役割を
この鍋たちがすべて担ってくれている。
また、クリステル鍋は入れ子式で
鍋ひとつ分しかスペースをとらない。

モノを持つ基準に汎用性の高さに価値をおくこと

こう考えることが
狭いマンションのキッチンにおいて
調理スペースの確保を可能にしている。

先の友人は
カレーや肉じゃがなど
炒めるという作業工程が入った後に
煮込むというお料理の場合

一旦、フライパンで炒めてから
また別の鍋にうつして煮込むというやり方だった。

この作業や洗い物を増やすのが嫌で
鍋ひとつで出来上がる、
ストウブ鍋を手に入れた。

だが、思ったより鍋が小さく
炒めが窮屈に感じたようだ。

もう一回り大きな鍋を買うか思案中との事だった。


こういった例は
少し柔軟に考えてみる。

例えば、鍋の変わりに
質のいいステンレスフライパンであれば
美味しい肉じゃがは出来上がる。

ストウブ鍋でも
玉ねぎを先に炒めて、カサを下げてから
他の食材を入れれば
鍋から飛び散ったりすることなく
調理ができると思われる。

友人の取る選択は
もう少し大きな鍋を増やすの一択ではなく

フライパンの買い替えや
調理法を変えることで問題解決に至るかもしれない。

要は
今、何に不満やストレスを感じているか
では、どういう暮らし(今回はキッチン)を
私は望んでいるのかな?

一度、そこに自分のこころの声を聞いてあげる。
そこにこそ、見えてくる答えがあると思う。

暮らしに必要な道具の適量は
全体の調和で考えるべきである。


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過信

やってしまった。

気を付けていたつもりだったけれど。

 

慌ただしい日常の中に

私は上手に

ちいさな違和感を紛れさせたつもりでいた。

 

年令を重ねながら

自分を誤魔化すことを覚える。

 


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何のことはない。

その代償は

ちゃんと利子をつけて戻ってくるっていうのにね。

 

小さくて大きな私の過信。

 

 

 

関係性を白紙にする

お片付けには段階があって

最初は明らかにいらないモノ

もう使えないモノを手放すのだけど

 

進むにつれて

今現役で使っていても

よくよく考えたら

私のオトモは本当にコノコでいいの?

って思いはじめることがある。

 

一旦、0(ゼロ)で考えたとしても

私はお金を払ってこれを持ちたいかな

と、考えてみる。

 

一旦、 今までの長い関係性を考慮せず

モノに贔屓をしない。

 

あくまでも

今の私に照準をあわせる。

 

その視点で

お部屋にある一点一点のモノと向き合うと

手放してもいいかなと思えるモノが出てくる。

 

逆に

どうやったってキミと別れられるはずないじゃないかーー

と、抱きしめたくなるほどのモノもある。

やっぱりキミなんだーー!と。

 

そして、それはきっととても数少ない。

 

 
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私たちの暮らしに本当に必要な大事なモノって

驚くほど少ない。

 

でも、それらだけで織り成す暮らしは

たくさんのモノに囲まれた

一見豊かに見える暮らしよりも

お金では買えない時間や余裕という名の

豊かさを与えてくれる。

 

これを一回体感してしまうと

リバウンドって状態には

もう戻りようがないなと思う。

絵本は子どもだけのものじゃない

キングコング西野氏が

ご自身が描かれた絵本を

ネットで全ページ無料で公開したことが話題になっていますね。

 

ところで

絵本は子ども専用の読み物と思われますか?

 

もし、今 

“専用じゃないんだろうけど、

そういえば何年も絵本なんて読んでないなあ”

 

ふとそう思われたら、ぜひ絵本を手にとってみてほしいな、と思います。

大人の鑑賞に十分耐えうる面白い絵本がたくさんあります。

 

今日はその中から一冊ご紹介します。

 

キツネ

マーガレットワイルド/文
ロンブルックス/絵

BL出版

 

図書館でたまたま子どもが手にしたこの絵本に

母親の私が魅いられてしまい、

結局本屋さんに注文しました。

 

友情、裏切り、嫉妬、孤独……

人間のサガともいえる感情がうずまいていて、

解釈は何通りもあるように思えます。

また、同じ読み手が読んでも

読み手の状況によって、

その解釈も変わる印象すらあります。

 

登場するのは三匹だけ。

キツネ。カササギ。イヌ。

さあ、読んだとき、

あなたが最もこころ魅かれたのはダレでしょう。


絵本の奥深さについて無関心ではいられない絵本です。

おすすめします。

 

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公園は正義!! の旗を下ろす時

一月現在、

我が家の七歳の子どもに伝えている門限は5時15分である。

 

本当は5時としたかったのだが

公園を愛してやまない彼の必死のネゴシエーションに母は15分屈した。

 

彼の公園愛、外遊び愛は、インドア派の母の概念では理解できない。

 

先の夏休み、泊りがけでさんざん遊び倒して家に戻ってきた日のことだ。

私たち家族は、ハードスケジュールが祟ってくたくただった。

 

夕日が少し残る黄昏どき、駐車場を降りるや否や

2日間を一番動き回った次男は

“ちょっとだけ、遊んでくる” と駆けて行った。

 

たった、30分でもいい。

射す光が残っていれば、

彼は誘われるように公園へと駆けて行く。

次男はそういう子である。


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その彼が、昨日5時10分に家に帰ってきた。

どういうことだ?

 

いつもは、門限を遅れがちである。

迎えにいけば、親が公園にいることをいいことに

もう少し、もう少しだけ・・と更に遊びたがる。

 

その彼が門限時間より早く帰ってきた。

これは入学以来初めてのこと。

たった5分といえど、これはただ事ではない。

 

「○○ちゃん(次男)、どうしたん、何かあったの?」

 

誰かに苛められたのか、まさか不審者が……

本気で心配して、私は聞いた。

 

「ボクが早く帰ってきたのは、な~んででしょ?」

 

こちらが拍子抜けするトーンで

彼からは、ミニクイズが出題された。

 

どうやら、不審者がらみではなさそうで、安堵した私は

 

「ん~、○○ちゃんが、

 またまたお利巧さんになったからじゃないかなあ」

 

と、返すと

 

「ブッブ~。ざんねんでした~、

 せいかいは、おそとがさむいからでした~」

 

 

 

前略

 

日本の、ここ最近の寒波は、全くもって尋常ではないようです。

 

このブログを読んで下さっている希少な優しいあなたが

お風邪を召されませんように

どうぞ、ご自愛くださいませ。

 

 

かしこ

 

 

 

一ヵ所を片付けたら、次も片付けたくなる

亡くなったお母様のモノを片付けたTさま。

その時の記事はこちら。

 

denimm1222.hateblo.jp

 


丸々スペースが出来た納戸。


代わりに置きたいものはあるのですか?と聞いたところ
ここの部屋に置いてあるものをこの納戸に移したいと言われ
通されたお部屋がこちら。

 

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床一面、モノで覆われた状態でした。 

 

元々、備え付けられた収納棚には、

ご先祖さまの代のモノ、

本家として置いておくようにと言われたモノが

場所を占領していました。

 

お部屋とお部屋は繋がっています。
お片付けは、家一軒という単位で考えるべきなんだと
実感をともなって思いました。

 

まずは、全出し。

スーパーの袋に入ったままの中身も出して
この部屋に何がどれだけあるか
モノの全体量を知っていただきました。

 

全体量ってお片付け前は把握が難しい。

何がどこにあるかが分からないからです。
だからこそ、また買ってきてしまう。
あるかどうか分からない不安な気持ちというのは
買って解決するほうが手っ取り早いのです。

 

でも、それがまた溜め込みの原因になってしまい、
お片付けをさらに高いハードルにしてしまう悪循環。

 

聡明なTさまは、お片付けをしながら、ご自身でそれに気づかれ

 

「私、こんなに持っていたんですね。」

 

と、お片付けをしながら

ご自身の状況を自ら振り返る余裕も出てきたご様子。

 

お母さまの遺品を整理なさったTさまは

モノの要不要の判断がドンドン早くなりました。

 

数時間後、先程の部屋はこのように。

 

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最初、Tさまからは

この部屋は、使う予定もないし、正直あまり好きな部屋じゃないんです。

と、伺っていました。

 

建築年数が長い戸建てにお住まいの方に多いのが

今の暮らしに必要な部屋数より、

多くの部屋数やスペースをお持ちの方です。

 

スペースがあるということは、メリットには違いありません。

 

と同時に、不要なモノを置いておける、

判断を先送りできるトラップも

そこには同居しているのです。

 

T さまは、何世代もの先送りを

ひとりっこのお子様に渡す前に

ご自分の代で片をつけることを

選択なさいました。

私は同じ母親として、そこに感動を覚えました。

 

Tさまからは何度もお礼を言って頂きました。

ですが、多くの学びを頂けたのは、私の方でした。

今回、暮らしのお手伝いが出来たこと、

私自身が大変嬉しく思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

反抗期ど真ん中の彼の瞳に映る母は

先日、長男とふたりで、自転車で出かける用事があった。

ふたり、と今書いたが、反抗期ど真ん中の長男は

朝から母との自転車デート(母認識)を誰かに見られまいと

私より、かなり後ろからついてきている。

車や人影のない早朝の狭い路地裏を、

わたしは時々後ろを振り返りながら、ペダルを踏む。


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予定していた時間より、少し家をでるのが遅くなった。

ところが、行く信号、行く信号、全部ひっかかる。

その度に、待つ。

風が少し出てきて、自転車の進みが遅くなってきた。

喧騒のない裏路地の交差点はまたもや赤信号だ。

 

左右を、目視する。

私は赤信号を自転車で渡り、先を急ぐ。

 

行った先の用事を済ませ、長男と自宅に戻る。

お昼ご飯を作っていると、長男がキッチンに入ってきて、牛乳パックを手に、

 

「お母さんでも、赤信号で行くんじゃなあ」

 

と、私に言ったのか、ひとりごとのようにも聞こえるトーンで呟いた。

その時、なんと私は言葉を返したのか忘れた。

ただ、長男が、母親である私をそう捉えていたのだなあと思って、妙に印象に残っている。

 

私は彼に対して、口うるさい母親であろうことは自覚がある。

また、私なりに彼に愛情を注いできた自負もある。

 

渡す側の意図と、受け取る側の印象がいつも一緒とは限らない。

親と子の関係性では特にそれが顕著だろう。

 

生真面目だが

いい加減な所もいっぱいで、親しい人には甘えっぱなし。

 

そんな私を、子どもにも晒してきたつもりだった。

 

けれど

人影も車もない早朝の路地裏の赤信号を

母が渡ったことが意外だったと漏らす息子。

 

規範意識が高いと思われた母に彼は失望したのか

それとも

誰しもいい加減な所があるんだと、

彼は人というものを

少し俯瞰で捉えることができるようになった現れだったのか

 

息子の一言を思いながら、

少し丈の短くなった洗いたての彼のジーンズを

夕暮れの中、私はたたむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お片付けは最大のご供養

「亡くなったお母さんのモノを片付けたい」

Tさま(仮名)からのご依頼は
数年前に亡くなったお母様の遺品が入った納戸を
一緒に片づけてほしいというご依頼でした。



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以前より一人暮らしをされていたお母様が
生前に絵画や書を楽しまれていたそうで
その作品たちが納戸を占領した状態。

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この家に住むT さまご夫婦とお子さん、
生きている人のために
このスペースを使いたいと仰り

どんな場所にしたいかという
希望もしっかり持っておいででした。

本来は思い出の品からお片付けに手をつけると
要不要の判断に時間がかかるので
初動スピードが上がらず
精神的な消耗のわりに
作業の進み具合がいまひとつになる事が多い。

 “わたし、やっぱりお片付けは苦手だわ”

こういった思いを抱かせるリスクがあるのですが、
Tさまにはそれは当てはまりませんでした。

お母さまの生前の楽しい話を伺いながら、作業は進み
納戸の中は、一旦空っぽになりました。


数を絞って残すものを決められたTさま。
残すと決めたお母様の作品たちを置く場所は
もう納戸ではありません。

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この家の玄関、一番目立つ明るい場所に
Tさまはお母様の作品を飾ることになさいました。

季節ごとに飾る作品は変えていき
娘さんご夫婦の暮らしの中に居場所を見つけました。

Tさまは、納戸にあった多くのお母様の作品を手放しました。
でも、お片付け前よりもお母様を近くに感じると仰ったことが印象的でした。



所有している。家の何処かにはある。
これでは、意味はないように思います。
思い出を胸に、今を生きる人たちが心地よく暮らすことが
一番大事なことではないでしょうか。