denimm日誌

雑記帳

感動のジレンマ

私はよく泣く。

自身が何かをされたり言われたり
ではなく、
何かに感動し
こころの琴線に触れた時、
私の涙腺は制御不能になる。

特に出産してからというもの
やたら、子ども関連は危険だ。


先日、たまたま立ち寄ったイベントで
子ども達がダンスを披露していた。

大きな大会ではなく
日頃の活動を保護者や新規見込み客に
披露するためのイベントのようだった。

しかし、そこで踊る子どもにとって
イベントの大小は意味がないことであって

子どもたちが真剣に舞う姿には
未完成の美しさと呼べる輝きがあった。

私は泣いていた。
名前も知らない人様の子どもの踊りで。


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観た映画、
読んだ本、
子どもに読み聞かせした絵本、
人から聞くちょっとイイ話し。

泣く。

そして、やっかいなのが
私はこんなにも私を熱くさせた存在を
人に話したい。伝えたい。
そんな野望を抱く。


だが、友人に自分が見聞きした感動を、
相手に伝えきれたという手応えを
私はまだ感じたことがない。

なぜだ?

泣くからだ。


映画を例にとる。

物語というのは
起きた時系列に沿って
話しを進めていくのが
最も、簡単、混乱が起きにくく
分かりやすいと思われる。

私も当然ここは
物語の序盤から話しを進めていく。

ところが、ここで
私は泣く。

相手は
「え?え?なんで?なんで???」

どうした、どうしたなのである。


解説しよう。

私の口は物語を話しているのだが
ここはまだ私が伝えたいシーンではない。

ここは本当にお伝えしたい、
その核に行くまでのフリだ。

でも、私はこの映画の全容を知っている。

伝えたい思いが先走りを始め
一番に伝えたいシーンは脳内再生を始める。

すると
その映画に対する思いの丈が
大きければ大きいほど
脳内再生されたシーンが私の涙腺を刺激するのだ。

仮面ライダー電王が言うところの
「最初からオレはクライマックスだぜ~~!!!」
の完成である。




こうして
涙は相手を困惑させ
私に情緒不安定な人格の烙印を押しただろう。

相手には話しの内容など全く入っていない。
涙が邪魔をするのだ。

            
涙もろい、と聞くと
人はたいがい情に厚く、
感性が豊かな人というように、
いいイメージを抱くと思う。

だが、私のそれは全く当てはまらない。
私は学習した。
2度とあの惨劇を繰り返してはならない。

いい映画、いい本、いい話しは
80点ぐらいの話しをしがちである。

感動の100点の話しを
本当は聞いてほしいと言うのに。



主人には苦労をかけている。
毎回、私の「100点を聞いてくれ欲」の餌食になる。

だが、人間には神様から
「適応力」という名のギフトが与えられた。

付き合いたての頃はまだ
そこかしこで泣き出す女に困惑したであろう彼も
そのギフトを最大限利用して

「え?もう泣きポイント来たん?」

と、ニヤニヤしながら
ティッシュを差し出す余裕を見せている。

小慣れた手つきで。