denimm日誌

雑記帳

クリスマス前に、主人が何やら難しいことを言い出した

本日、12月20日

今年も街はイルミネーションに彩られ

お店の店員さんも、赤い帽子をかぶってレジを打つ。

わたしたちは、毎年この光景を目にする。

24日になれば、恋人たちは愛を囁きあい

ツリーの飾られた家では、ごちそうとケーキが並べられて

子どもたちはサンタの到着を待ちながら夢の中に誘われる。

 

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日本において定着しきった文化。

 

だが、今更ながら

この文化が腑に落ちないと、ここ日本で言い出すものがいた。

 

主人である。

 

彼は私に問う。

「君は僕たちがクリスマスを祝うことに疑問は感じないのか?

 え?、感じないって。本当に?これっぽちも?」

 

と、NOを伝える私に尚も、食い下がる。

 彼がこれを言い出したのは結婚して、このクリスマスが初めてである。

 

主人の名誉のために、これは記しておきたいのだが

彼は社会人として

一般常識やバランス感覚などは

嫁のひいき目を差し引いてもある男である。

純粋培養で無垢な心を売りにした中年男でもない。

 

彼が言い出す理由は、私が想像するに、次男のお友達ではないかと思う。

 

というのも、次男には園時代からの仲良くしているお友達が3人いる。

その内のふたりが父親を外国人に持つハーフのお子さんなのである。

 

我が家の主人は飛行機嫌いで、海外への渡航経験がない。

息子を通じたいわゆるパパ友が実質初めての身近な外国人だ。

 

私たち日本人のクリスマス観をどう見ているのか

クリスチャンでもない私たちが、クリスマスを祝うことを

敬虔な欧米から来たパパ友さんは

嫌悪感とまでは言わないまでも違和感を覚えているのではないか。

次男の大事なお友だちの親御さんの本音を

主人は懸念したようだ。

 

 

そして、私は言ってみた。

「分かった。じゃあ、我が家は今年からクリスマスなしにしよう。」

 

すると、主人は

 「いや、子どもたちは楽しみにしているのだし、

 それは短絡的で、僕が難しい人みたいだ」

 

と、歯切れが悪い。

 

(もー、メンドークサイナー)


心の声をダダ漏れさせながら

忍耐強い嫁である私が、

よくよく彼の話を聞いてみた。

 

懸念のパパさんが、何かを言ってきたわけでも、

こちらがわざわざ、クリスマス観を披露しようというのでもない。

なにかのタイミングで話しになった時に

問いに対する答えを持っていたいと言う。

 

現状は維持しつつ、なにか落としどころを見つけたい

というのが、彼の主張のようだった。

 

解決案が出ぬまま、夫婦会談は終わり

私は眠りについた。

 

次の日、私はいつものように早朝

朝ごはんと主人のお昼のお弁当を作っていた。

平らな調理台にコツンと卵を当てる。

 

若かりし頃に流行った低血圧自慢を、今更するつもりはないが

私は朝のテンションの低さには定評がある。

早朝5時半の私を突き動かすものは

毎日の習慣、決まったルーティンのみである。

今の動きから次の動きの中に思考が介在していない状態である。

 

そんな時だ。

寝室である和室のふすまが勢いよく開けられたかと思うと

主人が開口一番こう言ったのである。

 

「聞いてくれ。

 その日だけクリスチャンのように振舞うのは

 やっぱり節操がないと思われても仕方がないと思う。

 

 だから、我が家はその日は世界中にいるクリスチャンの

 幸せを祈る日にしよう。

 宗教の垣根や人種、国境を越えて

 クリスチャンの幸せを祈る日にすれば

 祈る方も祈られる方も幸せじゃないか」

 

隣で眠る子供が起きないか、母親の私が心配するほどに

なかなかの声量で、彼はまくし立てた。

 

私は言いたいこともあったような気がするが

何せ、思考が全くついていけなかった。

起きるなりこれを言いたかった彼の心情を思うと

一言挟むのは、野暮だと思い「いいね」と告げた。

 

クリスマス文化から考察する日本の寛容な宗教観より

目の前の卵焼きの行方。

半熟からのひと巻きがその日の卵焼きの運命を決める。

そちらの方が、その時の私にはよほど最重要課題だった。

 

こうして、我が家のクリスマスの意義は“クリスチャンの幸せを祈る日”と制定された。

 

理路整然とした事が好きで、

整合性だけでなく

義理も手放せない昭和の男にとって、

悪くない落としどころではないか

身内びいきに嫁は思う。